「 プロフィール 」
塚本武司(つかもとたけし)
庭園プランナー、樹木医
大阪市生まれ、出戻り大阪府在住
はじめまして、作庭工房 garden Hana (さくていこうぼう・ガーデンハナ)を運営している塚本と申します。
肩書きは「庭園プランナー・樹木医」です。
大阪南部を中心に「庭づくり」や「樹木の診断、治療」を手がけております。
性格は、人には「まじめ」や「堅実」と言われたります。
確かにそういう面はあると思います。でも実際は変なところで細かく几帳面、肝心なところはアバウトだったりします。(典型的なO型でしょうか)
寡黙で多くを喋りませんし、カラオケも苦手です。
典型的な昭和の男です。
山歩きや陶芸が好きです。
モノづくりというか、手を動かして何かを作っているときに幸せを感じる変なヤツです。
土を触わるのも好きです。
ただ、子供のころに触われたカエルやトカゲはもう触われません。・・・
得意分野は庭の設計で、特にリフォームなどで既存のものをうまくアレンジして再活用したり、また樹木を活かした空間づくり、などでしょうか。
特に、狭い空間や条件の悪いスペースでも工夫とアイデアで悩みやお困りを解決するのが大きな楽しみ、悦びでもあります。
庭や樹木は本来、人の生活を彩り、心をゆたかにし、また資産にもなるはずのものです。
でもこれが負担となっては本末転倒です。
「庭」や「樹木」のお困りを少しでも解決したい・・・これが当工房の使命と考えております。
目 次 |
1 田舎育ちの体験と「原風景」が今につながっている・・・
私は大阪生まれです。でも家庭の事情(父の失踪)で母の実家である滋賀の田舎へ引っ越しました。まだ3歳ころの話です。
そこはとにかく自然豊かでかつ風光明媚なところで、今思えば大変恵まれた環境でした。
目の前に広がる海のような「琵琶湖」、湖面に浮かぶ竹生島や湖岸の桜並木、往時の隆盛を偲ばせる古い石垣や朽ちた木の桟橋・・・これらは私の心の「原風景」となっています。
この琵琶湖と背後の里山に囲まれて、幼い私は琵琶湖へ山へと年中遊びまわっていました。
泳いだり、魚やエビを手づかみで獲ったり、雑木林では虫獲りをしたり、木の実はアケビや栗、柿、梨、グミなど何でも採って食べてました。
子供は遊びや楽しみを発見する天才です。
毎日同じ場所で遊んでも飽きることがありません。
当時、田舎には「公園」などほとんどありませんでした。でも湖や川、雑木林、原っぱ、田んぼ、はげ山等々・・・多彩なフィールドがあれば遊びの発想はもう無限大でした。
今思えば、大阪の街中では決して味わえないことを日常的に体験できたことは大変ハッピーなことだったと思います。
これらの郷愁を誘う体験が、「原風景」とともに今でも心に焼き付いています。・・・
私は母子家庭で育ちました。
今でこそ珍しくもないようです。でも当時の田舎では周りにそんな家庭は少なく、他所の家庭と違うことに幼いながらコンプレックスがあったように思います。
母にとっては子供二人を連れての実家への出戻りであり、さらに肩身は狭かったろうと思います。
母親の苦労をいつも見ていましたので、子供心にとにかく心配かけないよう、まじめに堅実にという性格がいつの間にか出来上がったのかもしれません。
2 なんとなく選んだ就職先・・・なんとなく過ごしてしまう。
そんな私にとって、就職は自然と「地方公務員」を選んでいました。
特に成りたかった職業でもなかったと思います。でも親や周りに心配かけたくなかったのかも知れません。
本当は大学へ進学してもっと勉強したかったと思います。しかし親の負担を思うと半ば諦めていましたので、公務員なら夜学にも通えると聞き決心したように覚えています。
最初に配属された部署は比較的のんびりしていて、残業もなく定時に退社すると京都市内の夜間大学へ通うことが出来ました。
その時は生涯公務員のつもりでしたので、法学をまじめに学んでいました。
ところで、晴れて社会人、公務員になれたものの、周りの上司や先輩達の姿を見ていると、当時の私にはすでに自分の数十年後の姿、人生のレールがはっきりと見えていたように思います。
20名ほどの部署ですが平の私と課長のデスクの距離が5~6mほど・・・この距離を数十年かけて移動するのかと思うと何とも寂しい思いがしたのを覚えています。
でも終身雇用の時代、まじめに働いていればのんびりと過ごせる日々。
取り立てて目標もなくなり、「まあ、こんなものか・・・」という何とも若年寄な一時期がありました。
3 逆境にあって、心身が擦り切れてしまいました・・・
大きく状況が変わったのが、所属が異動になってからでしょうか。
前所属とは全く違う世界で本当に忙しい職場でした。
通常の多忙な業務に加え、議会対応や予算の時期になると課を挙げて対応に追われます。
残業、残業で終電近くで帰り、寝不足のまま満員電車に揺られて出勤。仕事が溜まれば休日出勤、休めても疲れて寝るだけ・・・
懸命に取り組んではいました。でも頑張れば頑張るほど少しづつ自分を見失っていくような日々でした。
今でこそ「ブラック」などの言葉もあります。しかし当時の会社員としては当たり前の風景だったのかも知れません。事実、周りの方々は当然のように懸命に働いておられました。
ただ、もともとこの仕事自体にモチベーションが低かったのでしょう、いったん気持ちの糸が切れだすとだんだん自分を制御できなくなっていきました。
ある時、仕事関係の人に言われました。
「塚本さんは公務員として県民のために自発的に何かしているの? 公務員として将来の展望は?」
・・・ドキッとしたのを覚えています。
私には単なる生活のための仕事、成り行きでやっている仕事でしかありません。あくまで自分のことしか考えていなかったのです。
肝心の仕事に対するビジョンやミッションなど明確に持てていませんでした。・・・
そう、目的意識の低いことが今の苦しみの大きな原因でもあったのです。
でも、恥かしながら今さら県民に対してと言われても急にモチベーションは上がったりしません。・・・
「自分には向いてない・・・」
漠然と分かっていたことですが、はっきりと現実を突きつけられた思いです。
こうなると、仕事を続けることはますます義務と苦痛でしかありません。
また、この当時将来を約束していた女性と結局別れることになったのもダメージが大きかったですね。
・・・
精神的に追い込まれた私は、ある朝目覚めると身体が動かないことに愕然としました。・・・
その以前からストレスのために胃潰瘍ぎみだったと思います。でもこの時は背中にまで痛みがはしり、まったく一人では起き上がれないのです。
正直、寝床の中で泣いてしまいました。・・・
結局数日休みました。
まじめな人間ほど逆境に弱いもんです。・・・
4 自分は本当は何がやりたいのだろうか?
あれこれ悩みながら、実際に退職を決意するまで2年ほどかかりました。
母やお世話になった方々の期待を裏切ることへの不安でいっぱいでしたが、
「残念だけど、無理をすることはない。」と慰められました。・・・
断腸の思いでした。
情けない、情けない・・・
酒を飲んで気を紛らす悶々とした日々・・・
・・・・・
ようやく周りに退職希望を告げ、少しづつ気持ちが晴れていきました。
できるだけ迷惑をかけないように3月末の異動時期に合わせて辞めることにしました。
いろんな心のタガが外れて、少しづつ将来を考えるようになりました。
「自分は本当は何がやりたいのだろうか? 」
自問自答が続きますが、簡単には答えは出ません。
「心機一転、生まれた大阪へ戻ってみよう! 」
そう思えたのも今となっては必然のような気もします。
5 詳しくは分からないが、なんか面白そう!
「生涯やり通せる仕事を見つけたい!」・・・
漠然とした思いだけで、具体的には何もなかったと思います。でも幼いころの体験からも漠然と「外で働きたい!自然に関わるような仕事がしてみたい!」と思っていました。
でも友人から「公務員は潰しが効かないよ(役に立たないという意味)・・・」とよく皮肉を言われていましたので、バブルもはじけて不景気な中で、採用してくれる会社があるようにも思えず不安でいっぱいでした。
その当時、恥かしながら生まれて初めて「求人情報誌」というものを買いました。
忘れもしない、特集記事が「学歴不問の仕事」・・・
その中の一番目に見開き2ページで掲載されていたのがある「造園会社」でした。庭園や公園を作ったり管理する仕事・・・こんな仕事があるなんて考えもしなかったです。・・・
なぜか妙なワクワク感があります。
詳しくは分からないが、なんか面白そう!・・・直感でした!
生まれて初めて会社訪問しました。
どうせ採用されないと思いつつ空回り覚悟で熱意を披露。・・・そしてなぜか即日採用決定!
あとで聞いたのですが、創業114年目で会社として初めて求人情報誌に広く求人を出し、初めて来たのが私だったようです。
まるで何かに吸い寄せられるように、あっという間に話が進んでいきました。
今思えばこれも必然でしょうか。・・・
結局、同期4名採用で新たな人生のスタートです。
6 めっちゃ面白い木の世界・・・
採用1週間目は「新人研修」です。各所の工事中の現場や公園、庭園を案内していただけました。
そこで、ひとつひとつ樹木の名前を教えていただけるのですが、これがとにかく新鮮でめっちゃ面白いのです!
全くの素人の私には、アラカシとキンモクセイの区別もつきません。・・・でも新しい知識に飢えていたのか楽しくて楽しくて仕方ないのです。
研修中、聞いた樹名と見た特徴をひたすらメモ書きし葉っぱも採集、帰宅後図鑑で繰り返し繰り返し確認・・・結局1週間で200種近くを一気に覚えてしまいました。
知れば知るほど興味が増していく・・・こんな面白い世界があるんだと一気にのめり込んでしまいました。・・・
そして最初の現場配属は日本万国博覧会記念公園内の「日本庭園」の緑地管理です。
ここが私を育ててくれた「庭」で、常駐で3年間過ごしました。
すごく広い庭園です。でもどこに何が植わっているか、今でも隅々までよく覚えています。
勤めていた会社はいわゆる「元請」の会社で、私の立場はあくまで「監督」になります。
協力会社の職人さんたちに指示を出して現場を「監理」するのが仕事でした。
でも、私は木の仕事を覚えたくて覚えたくて仕方ありません。・・・
そこで、こっそり先輩の目を盗んでは木に登り、他の職人さんといっしょに剪定など作業をさせてもらっていました。
(先輩に見つかりよく怒られましたが・・・)
7 多くの出会いと学びに感謝・・・
ここで多くの「出会い」もいただきました。
お一人は「樹木医」のYさん。
当時は樹木医も少なく、木のお医者さんというのは何となく聞いたことはあったと思います。でも実際に目の当たりにして大いに感動してしまいました。
木の診かたや扱い方など大変勉強になり、「樹木医」が私の憧れになりました。
「樹木医」になるには7年の実務経験と試験、そして2週間の泊り込み研修があり、当時の私には遠く及ばない世界でした。でも、「諦めなければ大丈夫!」と仰っていただいたのはとても励みになったと思います。
今振り返ればこの時のYさんとの交流と日本庭園での経験がその後の資格取得の大きな財産であったことは間違いありません。(感謝)
また、緑地指導員のSさんとの関わりも生涯忘れられません。
ご高齢ですがとてもエネルギッシュです。元軍人で戦争中は中国奥地まで転戦して、帰国復員なさったのは戦後8年も経ってからという兵ものでした。
よく戦争の話をお聴きしましたが、飄々とした方で、仕事中でもよく下ネタを仰います。
最初は品がないな、とやや嫌悪感もありましたが、後で、
「こうして下ネタと一緒に聞くと話を忘れへんやろ!」
・・・まさにそのとおりでした。
蘊蓄あふれる貴重なお話は今でも大切な財産です。
8 とんでもない無上の楽しみ、宝物をついに発見・・・
もう一つの出会いは、人ではなく「庭の設計、デザイン」というものを知ったことです。
それは「重森三玲」という希代の作庭家の著書に出会ったことがきっかけです。
正直いってすごく衝撃的でした。
素人の私の中では、日本庭園というとどこか古めかしいイメージがありました。しかしそれを根底から覆されてしまいました。そして同じ庭でもいっぺんに見える風景が変わってしまったのです。・・・
庭園の骨格となる「石組み」の芸術性や抽象性、永遠のモダン・・・夢中になって著書を読み漁りました。
そして休みになると取り付かれたように遠方まで出向き、著者の作品や「古庭園」をあちこち見て歩きました。
上質な庭を著者の「庭園実測図」と照らし合わせながら真剣に向き合う中で、しぜんと庭の「美意識」を学んでいったように思います。
また、これにより庭における「設計デザインの重要性」を大いに知ることとなりました。
そして「作庭」というとんでもない無上の楽しみ、宝物をついに発見したのです。・・・
これをきっかけに、会社でも進んで設計の仕事をさせていただきました。
素人なりにどんどんひたすら場数を踏んでいったのです。
とにかく庭の構想を練るのが楽しくて楽しくてしかたなく、家に帰っても四六時中考えているような有り様でした。
また、何より作庭の機会を与えて下さったお客さまが喜んで下さるのがとても嬉しく、有り難かったです。
成功ばかりでなく失敗も大いにやらかしましたが、今となってはすべてが糧になっています。
本当に良い会社や人に恵まれ、多くの経験をさせていただきました。
自由な社風といいますか、悪く言えば放ったらかし、よく言えば向上心さえあれば結構何でもさせてもらえました。・・・
ドイツ・ハンブルク市での公園工事や管理の経験、職業学校でのガーデニング科の講師就任、2週間におよぶ樹木医研修・・・
また、設計を任されることが多くなり、個人住宅をはじめ、事業所や店舗、施設、緑地、また屋上庭園、壁面緑化などあらゆる経験が今の自分に生きていると思います。
そして何より、私にとって「庭」や「樹木」との出会いと興味が人生を蘇生させてくれたことは間違いありません。
そして今でもそれを楽しめています。
本当に庭ってすばらしい! 樹木って面白い!・・・
ワクワクドキドキの世界なのです。
9 たとえ小さなステージでも、「ありがとう!」が嬉しいのです。
紆余曲折を経て独立開業するに至りました。ご縁いただいた多くの方々には大変お世話になりました。
前職のように、公共施設など大きな物件を扱うことは少なくなりました。
でも、かえって小さな庭、狭い空間の修景、そしてそこに住まわれる方々に興味が広がっていったように思います。
きっかけは、とある年配のご婦人との出会いでした。
調子の悪い庭木を樹木医として治療したことから知り合いになった方です。庭木が回復していくにつれ大変喜んでいただき、お役に立てて本当にうれしかったのを覚えています。
そしてある時、私が木の治療以外にも庭全体のことも扱っていると知ると、
ご自分が抱えている庭への不満や、こんな風にしたいという希望、分からないことの相談などを堰を切ったように話されるのです。しかも目を潤ませながら・・・。
・・・正直、びっくりしてしまいました。よほど思い詰めていたのだと思います。
以前にもある業者にお願いしたらしいです。でも忙しいのかなかなか相手にされず、
「こんな狭い所、誰も面倒見てくれないのよね。」と寂しく仰ったことがすごく印象的でした。・・・
このご婦人に限らずどんな庭でも、生活や周りの環境が変化していくなかで「庭」と「生活」はしだいに乖離してしまいます。そして程度の差こそあれ、人それぞれさまざまな不満や困りごとを抱えておられるのだと身をもって知りました。・・・
前職ではほとんど経験のないリアルな声でした。
「今の自分ならその要望や期待に少しは応えられるかもしれない・・・」
それ以来、小さな庭、狭い空間の修景に興味が広がるとともに、「庭」や「樹木」へのお困りに対して状況に応じたさまざまなご提案をさせていただいてきました。
たとえステージは小さくても、お客さまが「ありがとう!」と喜んで下さる充実感、そしてその有り難さには何ら変わりがありません。
庭や樹木は本来、人の生活を彩り、心をゆたかにし、また資産にもなるはずのものです。
でも、庭の大小にかかわらず、せっかくのお庭や樹木が生活の障害や負担になってしまっては本末転倒です。・・・
・・・・・
今の私には、しっかりとミッションがあります。
「庭」や「樹木」のお困りを少しでも解決したい・・・これが当工房の使命と考えております。
どうかお困りのことがありましたら、お気軽にお声をかけて下さいませ。
こんな私ですが、きっと何かのお役に立てるかと思います。
素敵な出会いをお待ちしております!